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西安 楊貴妃墓(ようきひのはか)
- 傾国の名花楊貴妃の墓は西安市街地から70キロほど離れた興平県の馬嵬坡にある。彼女は719年に生まれ、756年に亡くなった。745年に玄宗皇帝の貴妃となり、玄宗は楊貴妃を得てから、毎日酒と歌舞と貴妃の愛に溺れて政務から遠ざかった。このため、国内情勢は次第に悪化し、政治は窮境に陥った。755年、勢力を貯えてきた安禄山が叛旗を翻し、所謂「安史の乱」が起こった。楊貴妃は玄宗皇帝に従って、戦火を避けた途中、馬嵬坡で近衛兵と指揮官の不満が募り、騒乱が起きた。兵士たちは「窮地に陥ったのは楊一族のせいである」と楊国忠を殺し、さらに、玄宗皇帝に楊貴妃を殺すことを要求した。玄宗皇帝は兵士たちの激昴の前に涙に暮れながら宦官、高力士に楊貴妃を絞殺せよと命じた。楊貴妃はこの時、寺に入って仏に祈りたいと玄宗に希望し、許可を得た楊貴妃は寺に入って、仏像に面して「一日早く亡くなったら一日早く生まれ変わるようにお願い申し上げる」と祈った。その直後、楊貴妃は絞殺された。時に38才。子供もないままに死んだ彼女の一生は「花の命は 短くて 苦しきことのみおおかりき」という詩の通りだった。玄宗は楊貴妃を簡単に土葬して四川に逃げ、危難を避けた。
- 昔、楊貴妃の墓は土盛りだったが、墓の土は毎年春に白粉に代わって、香を漂わせた。その白粉を顔に付けると美人になるという噂が広まって、大勢の若い女性がその白粉を欲しがって墓に参った。このため、2〜3年のうちに墓の盛り土がなくなってしまった。
- 現在の墓は半球状のレンガで覆われていて、墓前に「楊貴妃之墓」の碑がある。楊貴妃の非業の死は人々の心を打ち、以来、歴代の多くの詩人が墓を参拝し、多くの詩を献じた。それらの詩は30基の石碑に刻まれ墓の回廊の壁に収められている。現在、墓地の辺りには門楼が建ち、亭、堂が復元されている。